2017年4月15日土曜日

主事ブログを終える。

・キリスト者学生会主事の働きを終えて、早2週間が経った。18時前に仕事を終え、帰路につくことができるのには、まだ違和感がある。

・このブログは、KGK主事として書き綴ってきたものだ。ゆえに、この投稿をもって、このブログに投稿することは終わりにしたいと思う。

・これからは、主事になるまで書いていた「ことば」というブログに、また気が向いたときに書き綴っていこうかと思う。もしよろしかったら、そちらを訪ねていただきたい。ひとは言葉によって生きる。その営みは、いつまでも続けていきたいと思っている。
http://yus-kotoba.blogspot.jp/

・これまで応援してくださって本当にありがとうございました。

2017.4.15 サトウユウ

2017年2月27日月曜日

終わっていく

・「次は、新宿です。」電車内のアナウンスは、聴き慣れてしまって、もはやコミュニケーションというよりも、景色のようになっている。いろんな自分がこのような景色のひとつひとつを「日常」と呼んできたが、それが終わっていく季節がまた来ようとしている。

・昔から3月は苦手だった。別れの季節だからだ。別れるべきは何も人だけではない。慣れ親しんだ「日常」と別れるのだ。そして新たな「日常」を獲得するための格闘を、4月から5月にかけて、していくのだ。

・僕は3月が好きだ。苦手だけれども、好きだ。それは、僕の努力とか、才能とか、そういうことを超えたところで初めて動き出す、力強い季節だからだ。噛み締めて、噛み締めて、踏み締めて、踏み締めて。終わっていく季節を、僕のものにしよう。

2017年1月4日水曜日

夜明け前に

・「私は夜明け前に起きて叫び求めます。私はあなたのことばを待ち望んでいます。」詩篇119:147

・気づけば、新しい年。この、年末年始の雰囲気がいつも好きだ。ゆったりしながら、次の一歩をじっくり考える。決意を新たにし、歩み出す方向をじっくりと定める。この期間がとても好きだ。

・何においても、始まる「前」というのは大切で、前にどうしていたかということが今を規定している。冒頭に挙げた聖書箇所では、「夜明け前に」という言葉が出てくる。夜が明けて、諸活動が始まる。その前に、起きて叫び求める、と。暗いうちから、まだ誰も起きていないうちから、みことばを待ち望んで叫び求めます、と。

・夜が明ければ、人々が起きてくる。そして、その日が始まる。人が人と出会い、仕事が山積し、するべきことのリストが追いかけてくる。その前に、起きて叫び求める。主の助けを求める。主がともにおられることを求める。主のことば、主の存在を待ち望む。この時間が、日が昇ったのちの時間を規定する。

・2017年の夜明けともいえる、この週。今日から仕事や学校が始まるという人も多かろう。「夜明け前に起きて叫び求めます」という信仰者の姿を、我がものとしたい。

2016年10月28日金曜日

順序

・物事には「順序」というものがある。この前にはこれをしておかなければとか、この後にはこれをするとか。一つのことがそのものだけで存在したり起こったりすることはほとんどない。何かがあって、何かが起こり、それが何かを生み出す。その繋がりは、誰にも意識されないことも多い、という意味で、ちょっと透明である。

・この繋がりを意識し始めると、ちょっと世界の見え方が変わる。このことの前にはこれがあって、これがなければこのことは存在しえないということがわかったりすると、なにか大事な流れのようなものを感じることがある。川のような、一定の速度で一定の方向に向かっていく、流れのようなものを感じることがある。それは、「運命」という言葉から、その言葉が持つ悲壮感と諦めを取り除いて、そこに自分のことをいつも見つめてくれている暖かい存在を付け加えたような、そんな感じである。安心に近い感じである。

・導き、という言葉が、その感じに一番近い言葉だと思っている。運命という言葉は冷たい。導きには人情というか、人格がある。愛がある。その導きの中を生きる人生は、安心感がある。一定の速度で一定の方向に向かっていく流れ。それが「神様の意図」だとするならば、僕は本当に生きてきてよかったと思うことができる。

2016年10月12日水曜日

止まる筆

・また、久しく筆が止まってしまった。ただ、それは決してただの悪いことではなかったように感じている。というのも、僕が日常的に書くものとして、①三行日記②感謝ノート③思索ノート④ブログ(これ)という4種類があるが、その前者2つがしっかり書けているときは比較的健康な時で、後者2つの筆が止まらないときは何かしらに苦しんでいるときことが多いからだ。このブログの筆が止まってしまった間、僕は間違いなく日常を走り抜けていたし、筋肉痛になるほど笑ったし、怒られるほどはしゃいだ。主事としての歩みを一つ一つ噛みしめながら、奥歯でゆっくり強靭に噛みしめながら歩いた。だから、きっと、思索は深まり分かち合いたいことはゆっくりしかも着実に降り積もっていったけれども、パソコンに向かってカチャカチャと語り込む時間はなかったわけだ。それは決してただの悪いことではなかった。と思う。

・久しぶりに、口で後悔した。言わなくてよかったなあと思うことを言い、あんな言い方しなくてよかったなあと思うような言葉を選んでしまった。この後悔―関係各所に頭を下げに奔走したくて仕方なくなるような―は、わりかし久しぶりで、戸惑っている。こんな時、どんなことが誠実を尽くすことになるのか、いや、どんな「類の」誠実を尽くせばいいのか、途方に暮れてしまう。すべて、一点の曇りもなく、自分の身から出た錆だ。

・こんな後悔に、じっと耐え抜くとき、僕は試される。動くか、動くまいか。なんのために動くのかが揺さぶられる。「使命は感情によって揺さぶられるが、使命から生まれる感情は大切にされるべきである。」僕のこの感情は、不気味に僕の心の中心を浮遊している。

2016年7月20日水曜日

神様が、今日語られた

・「神様って、生きておられるんだなあと思いました。」今日、説教を終えた直後のある学生のレスポンス。本当に嬉しかった。なぜなら、僕も本当にそう思うから。

・説教を準備しながら思うことがある。それは「神様は生きておられる」ということ。あの群れに、今月、神様が語ろうとしておられることがある。そのために、神様が言葉を紡いでおられる。わたしにとって、説教とはそういう時間。あの群れに、主が語られる。あの日集められた民に、神様が語ろうとしておられることがある。

・それを受け取ってくれる学生がいる。感謝なことだ。そして、「勇さん、いい説教ありがとうございました」と労ってくれる。本当に嬉しいことだ。そして、同時に思う。神様が、いいことばを紡いでくださったのだよ、と。

・「神様が、今日語られた。」その実感をもってメッセージを聞き終える人がどのくらいいるだろうか。これはみことばを取り次ぐものとしては常に緊張感を持つべき事柄ではないだろうか。神様が語られたということをどこまでも大事にしなければ、「説教」と「説得力のある講話」の境目に徐々に靄がかかっていく。

・だから、今日の学生のレスポンスは本当に嬉しかった。「神様って、生きておられるんだな。」このリアリティーがある説教の時間を目指したい。月に一度の説教の時間が、主の躍動を、主の脈打つ生命の息吹を、学生とともに感じる時間でありたいのだ。

2016年7月12日火曜日

ベール

・人から愛されることを願う。人から評価されることを求める。人に労ってほしいと思う。慰めてほしい、励ましてほしいと思う。認めてほしいと思う。

・僕にはこのような願い、求め、思いがとてもある。そして、それを実際に会話の中で暗に要求したりする。それに乗っかって僕を労ったり、慰めてくれる人がいる。すると僕はうれしい気持ちになる。

・一方で、それには乗っからない人もいる。意識して乗らない人もいれば、無意識に乗らない人もいる。すると僕はちょっと落ち込んで、失望して、「卑屈」という薄いベールで心を覆う。

・調子が悪くなればなるほどその傾向は強まっていく。求め、挫折し、卑屈になる。だんだんベールが壁になっていく。態度や言葉に卑屈さがにじみ出ていく。そして、じわじわと、自分の周りが、壊れていく。

・このような経験を僕は繰り返しているし、きっとこれからも続けていくのだろう。この自分とは、戦い続けねばならない。僕の根底に流れている罪の現実の表出だ。

・今朝、聖書を読んだ後、その自分について黙想してみた。すると、すごく単純な思いが、ふっと降りてきた。

・人から愛されることを願っている。けれども、主はすでに私を愛しておられる。人から評価されることを求めている。けれども、主はすでに私を評価しておられる。人に労ってほしいと思う。けれども、主はいつも私を労っておられる。慰めてほしい、励ましてほしいと思う。主は私をいつも慰め、励ましておられる。認めてほしいと思う。主は私を、いつも、認めてくださっている。

・主にまず求めるべきものを、人に求めている自分に気付く。今までの歩みが偶像礼拝であったと気付く。主にしか埋められない心の渇きを、人で埋めようとしている自分に気付く。海水でのどを潤そうとしていた自分の愚かさに目が開かれる。真水を求める。渇くことのない、主の泉を求める。

・思えば、自分が回心した大学一年生の時のキャンプは、まさにこの一連の流れを味わったキャンプだった。友達ができない。卑屈になる自分。どんどん人が自分から離れていく感覚。一人でもどった最終日の部屋。主に交わりを求めた。すがるように「私の友になってください」と主に祈り求めた。その時に与えられた平安は、今でも心がしっかり感覚として覚えている。

・今朝、その時の平安を味わった。移り行く人の心。安心できるときなど一時もない。けれども、主は変わらない。私たちがどんなに変わっても、主は変わらない。その平安を今朝、私は心に刻んだ。卑屈さのベールが、一枚脱げ落ちたように感じた。



「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」ヨハネ4:13-14

「御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい。渇くものは来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」黙示録22:17

「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」へブル13:8